「お金儲け」という行為に罪悪感みたいなものを覚える人は少なくない。会社員やアルバイトで労働の対価としての給料を得ることもお金を稼ぐことになるがこちらに罪悪感を持つ人はほとんどいないはずだ。だが、モノやサービスを提供して、お客さんから直接その対価を受けとることに対して遠慮や恐縮の気持ちを感じてしまったというのは誰しも経験があるのではないだろうか?そもそも労働に対して報酬を受けとるという行為もサービスとお金の交換なのに考えてみれはおかしなものだ。

なぜ世の中の多くの人はお金を儲けるということに対して罪悪感や嫌悪感を持ちがちなのだろうか?それは人類が長い歴史を通じて確立してきた庶民への教育が原因ではないかと思う。

人間は他の人より自分の方が豊かになりたい、良い目を見たい、優位な立場にありたい、と考えるのが本来の性(さが)であるのは疑いのないところだろう。しかし皆がそう思って欲望のままに行動すると熾烈な競争が生まれることなる。だから、ときの支配者は「お金に執着するのは卑しい、がめつい」「質素で清貧であることが尊い」「贅沢は敵だ」などという教育を施し、大多数の庶民がお金儲けに興味を持たないように仕向けてきたように思える。自分たちは莫大な富や権力を持ちながら。。

いずれにしてもそれが彼らにとっての快適な統治を実現するのに良い方法であったのではないだろうか。特に戦後の日本においては急激な経済成長の中で多くの労働者を必要としていたので皆がそのような考え方を持っていた方が都合がよかったのは想像に難くない。

しかし、庶民としてはそれにいつまでも従っているのは間違いだと言わざるを得ない。僕もかつて、特に会社員として勤めていた時代は、自分が知り合いの仕事のために何か調べてあげたり、中国語の通訳を頼まれたりしたときに謝礼を申し出られたりすると「そんなつもりではないから」と断ったり、妙に恐縮しながら受け取ったりしたものである。今となって振り返れば、僕が手伝ったことで相手はコストの節約なり、収益の拡大なりの効果を得て利益が出ているのでまったく遠慮はいらないなのだが。

一方では同じように労働というサービスを提供している勤務先の会社に対しては心の中で”もっとたくさん給料をくれれば良いのに。。”などと考えていたのだから矛盾したものである。もちろん利益とは関係なく困っている友人を助けるようなときにお金を要求するのはナンセンスなこともあるので都度理性的な判断をする必要があるが、基本的に自分の時間と労力を人のために拠出したときに対価を受け取るのをためらう必要はない。むしろためらってはならない。正当な対価を堂々とお金で受け取ること、お金を儲けることに慣れよう。

資本主義社会においては「お金=力」である。であるならば、お金がたくさんあればそれを使って人を助けたりもできるし、あるいは自分の仕事を人に手伝ってもらう代わりにお金を渡して「力」をその人と分かち合うこともできるのだ。お金を持っていると他の人の負担にもならなくて済む。

例えば、日本には160万人以上の生活保護受給者がいる。これは政府、ひいては納税者全体の大きな負担になっている。もちろん病気や天災などやむを得ない事情で生活保護受給者になってしまった人もいるだろう。だが健康には何の問題もなく、ただお金を稼ぐことやそれを管理する能力が欠けていたがためにそうなってしまった人は少なくないはずだ。

ごくごく一部に、不正とは言わないまでも確信犯的に受給者になっている人もいるかもしれないが、ほとんどの受給者はその立場でいることに不本意なはずである。本当は自分で充分なお金を稼いで、誰の世話にもならずに自由に生きてゆきたいはずである。経済成長が落ち着き、科学技術が発達し、それほど多くの労働力を必要としなくなった今、統治者は庶民に対して逆に「お金を儲けることは何ひとつ後ろめたいことはない」ということを植え付けるべきではないだろうか?もしそうならないのであれば、我々が自分自身で意識を変えてゆく必要があるのではないかと思う。

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